令和2年度「第4回環境文化シンポジウム島と東京を結びこれからの奄美の環境文化を考える」記録集
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-43-ょうけど、30年代はまだ、奄美群島はみんな農業一筋でした。水田も各村々に、もうそこらじゅうに水田がありました。この頃は農機具が、耕運機だとか機械化されてません。そのために、みんなで各村々で、田植えを手伝いっこ。先ほどもどなたがおっしゃっていましたが、結いと言います。沖縄でゆいまーるといいますが、この結いワークの結いがあって、お互いに助け合って、その中で、先ほどから議論が出ている伝統行事が夏も秋も、豊年祭を含めて、いろいろと各村々にありました。当時、昭和20年代と30年代、食べるものがありません。こういうお祭りの時に各村々でみんなごちそうが出てですね、豊年祭含めて、お祭りには、いつもはろくな食べ物は食べられませんけれども、お祭りの時にはご馳走がが出て、子どもたち含めて、大人は焼酎がいっぱい出て、飲み放題、食べ放題の頃でした。ですから非あ常に、村の農業ですから、労働基準法関係なくお休みがありません。お祭りの時にしか休みがありません。そういうところで皆さん、羽を伸ばして、年に何回しかないお祭りで騒いで楽しんで、これは生活の中に染みついていた行事だったと思っています。ただ、昭和30年代後半から40年代にかけて、農業水田がなくなり、農業の機械化が進み、サトウキビが中心になってきて、だんだんと結いの仕事が必要でなくなりました。そうすると、お祭りも自然と、先ほど申し上げたように、結いがありませんから、お互いに休みを取って一緒に楽しむというの生活の中の行事ではなくて、前からある、昔からある行事の一つとして、つなげるように。先ほど必要性の問題が出てましたけども、必要性はなくなっていましたけれども、楽しみとして今にを受け継がれて、ましては、先ほどの高校生の方が言われたように、その年々その影響は薄まって、今はほぼゼロになっていると思います。私の今の一般社団法人結いの島の「結い」は、その「結いワーク」からとっているんですが、ぜひうちのホームページをネットで見てもらいたいのですが、アクティビティを世界中の人に発信して、奄美群島に観光で来てもらおうという、今そういう仕組みを作り上げています。その中で、各島々の伝統行事を、言葉は悪いんですが、ショービジネスと言いましょうか、それを有料で見てもらって、各村々にお金が落ちるような仕組みを今考えています。実際に今、アクティビティは何件できているかと言うと、大島では住用の1件、徳之島では井之川と亀津に1件1件。奄美群島全体で3件しかありません。昔は各村々にみんな同じようなお祭りがありましたから、それぞれちょっと違う形の独特のお祭りがありました。今は奄美本島で我々がビジネスとして、そういうお祭りをお客さんに見てもらおうと思ったら、たった3件です。これもですね皆さん、お年寄です。保存会はあって毎週毎月、その練習をしています。他にもいっぱいありますけれども、とてもそそこまではできません、というのが奄美群島全体の現実です。そこへ伝統行事を受け継ぐ話が先ほどからずっと、おっしゃられていますが、これは非常に厳しい話だなぁと思って、今、鑑賞をしておりました。私がしゃべると、1時間はぐらいありますので、このへんで止めさせてもらいます。ありがとうございます。小栗原田さん、井藤さんありがとうございます。時間が来てしまっているんですけども、このまま終わりっていうこともちょっと悲しいですね。少しあの続けさせていただければと思います。今の原田さん、井藤さんからお話をいただきました。原田さんの方からは、伝統行事を受け継ぐということで、奄美のアイデンティティや奄美愛ということ、タイミングがあるというお話をいただきまし

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