令和2年度「第4回環境文化シンポジウム島と東京を結びこれからの奄美の環境文化を考える」記録集
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-36-いうことが今言われている状況で、せっせと村の月に一度、唄の稽古をして、何とかつないでいるという訳です。それから、先ほど、豊年祭の相撲をなんでこんなことをしなきゃいけないのかというお話がありまして、これはもっともなことで、浜手さんもおっしゃられましたけれども、もう文化がどんどんいろんなメディア伝わっている状況で、旧来のことをつなぐべきかどうか。これは村人が決めればいいし、若い人が発言して決めればいいことであって、何が何でもつながなきゃいけないということではないと思うんですね。あと気が付いた点を申し上げますと、私が一番気にしていることは景色が変わったことなんですよね。自分たちが子どもの頃というのは浜に船が十数隻並んでいたんですね。当時はまだ、浜から盛り上がってその村ですから、そこにアダンの林があって、そこに船を引き上げて管理してたんです。また夜になると、ちょっと村に降ろしましたけれど。これが昭和 30 年前後から護岸ができてしまって、浜に船が置けなくなったんですね。それで一部は海に浮かべる。しかし時代はそれに合わせて船が減って、今じゃほとんどの浜には船ががない。これは非常に一番、私の気がつく景色の変化だと思います。それから、余談になりますけれども、要田ののかさんは島唄をやってらっしゃいますよね。私もレコードを聞かせてもらってますけども、若い女性が島唄を歌うというのは昔はなかったんですよね。我々は子どもの頃の島唄というのは男の大人、三線を引くのは男です。当時は女性は三線しませんでした。これが変わったのはやはり、地元の新聞社で民謡大賞というイベントが成立して、それからいろんな方が歌うようになったんですね。それからだんだん状況が変わりました。だから自分たちが最初、三味線を引こうとすると、親が不良になるって言ってたものなんですよ。今そんなことありません。どんどん伝承文化として広めてもらいたいと思います。私今回、ちょうど旧暦の大みそかに帰ってきたんですね。こちらではクンチと呼んでいますが、クンチの日にティバンシャ(つわぶき)にウワンフネ(豚骨)、これは伝統の料理だったんですね。ウワンホネは豚を潰して塩漬けにして、夏からもずっと作ってきたんですね。ティバンシャはツワブキですかね。これと一緒に煮込んで一族で食べるんですね。たまたま私の一族ではその風習がまだ残っているので、これを食べました。そのために日を合わせて帰ってきたんですけれど。そんな伝統も残っているということで、行事というものはやはり、村の人達がお互いを知り合う、団結する場であったと思うんですね。だから昔は男と女の出会いもいろいろその行事で出会ったわけですよね。それがなければ、会わなかったかもしれない。従って、伝統行事というものは自然に発生したものであって、もともとは誰かが強制的に何かをやらせるというために行ったものじゃない。ということは理解していただきたいと思いますね。小栗 ありがとうございました。貴重なお話をいくつもいただきました。これからの大事な点をお伺いしようと思ったんですが、若干時間が押しておりますので、この後は休憩をはさんで第 3 部で、この間の議論について東京会場の方たちからコメントをいただきたいと思っています。第 3 部の冒頭に、どんなことを一番大切にしたいのかということを皆さんから頂いてから、東京に繋ぎたいと思います。―それでは、東京とつないでの第3部のディスカッションに入る前に、5分間休憩を取らせていただきます。15 時 58 分ぐらいを目途に、時間になりましたら、席にお戻りいただけるよう、よろしくお願い致します。=休憩(5 分間)=

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