令和2年度「第4回環境文化シンポジウム島と東京を結びこれからの奄美の環境文化を考える」記録集
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-21-うな感じの遊びというか、本当に、僕なんかが小学生の時ぐらいからですかね、ファミリーコンピュータとかがちょっと出だしてきたりしてたんですけど、なかなか、ゲームがすごい下手くそで苦手だったので、一人でずっと海に入って遊んだりとかしてまして。まぁでも一緒ですよね。うちは親が共働きだったので、自分たちで昼ご飯も調達しないといけなくて、これ遊びっちゅうよりも、腹減ったから食べるために、みたいな感じで、それがまあ遊びにもなっていたのかもしれないんですけどね。もうお腹空きすぎて仕方ないんで、なんかそこを食べれるか分からない貝も食べてみたりとか、その貝で腹なんか壊して、「あ、この貝は食べれないな」とかですね、「あ、この葉っぱ、意外とおいしいな!」とか、なんかそんな感じで、僕の場合、遊びでもあるんだけど、実際に自分で食べたり触ったりとかして、食べるものを探していたという感じの遊び方だったんですけどね。小栗ありがとうございます。隣で濱田さんが頷いておられましたけども、濱田さんはどんな子ども時代だったんでしょうか。奄美市社交飲食業組合理事濱田美和(以下、濱田)皆さんこんにちは。屋仁川でお店をしております、社交飲食業組合の濱田と申します。奄美在住なんですけども、今日は奄美で暮らす現役世代として、屋仁川で働く立場とし幼少期のお話をさせていただくということで勉強も兼ねて参りました。よろしくお願いいたします。多分、世代が同じぐらいなので遊びが一緒だったかなって思うんですけども、私は瀬戸内町の古仁屋で生まれまして、半分兵庫県の尼崎でも育ったんですけども、幼い頃は夏休みの時とかは古仁屋の川でタナガ(手長エビ)を取ったり、山に行ったり、海で泳いだり、同じような感じですね。小さな魚ですけど、釣りをしたり。思い出に残ってるって言えば、祖父が瀬戸内者の網野子集落の出身なんです。祖母が瀬戸内町の伊須集落なんですけど。祖母の伊須ではヤギを飼っていて、風邪を引いたりすると夕食でヤギ汁が出たりとか、「もしかしたら、食べてるヤギって、あのヤギかな」って、ちょっとヤギ小屋に見に行ったり、でもヤギがいたので、それを食べてる訳じゃなかったのでホッとしたり、そういうこともありました。あと思い出に残ってるって言ったら、兵庫と島を行ったり来たりでしたので、都会とは違う遊びでとても楽しかったのを覚えてます。都会には近くに海が海も山もあるわけでもないので、島に帰ると、ちょっと行けばすぐに川があるし、山もあるし、海もありますので楽しかったですね。夏になると八月踊りを大人の真似をして踊ったりしたり、六調も好きです。瀬戸内には、魚屋さんが近所に何軒かありまして、魚が食卓に毎日のぼっていたことや、おやつがよもぎ餅、サトウキビ、今サトウキビってあんまり食べないと思うんですけれども、サトウキビ食べてたのが懐かしいです。小栗ありがとうございます。住用町の中村さんはいかがでしょうか。奄美市住用町市地区婦人会部長中村由美(以下、中村)皆さんこんにちは。中村と言います。住用町の川内出身なんですが、結婚して市集落に住んで19年目になります。家族は夫と高校1年

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