令和2年度「第4回環境文化シンポジウム島と東京を結びこれからの奄美の環境文化を考える」記録集
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-20-歳なんですけども、シマに戻ってきてもうちょうど25年目になります。都会でそれまで仕事してたんですけども、やはりシマのことが好きで、シマの環境が好きで帰ってきたいという思いで、25年前に帰ってまいりまして、今現在に至っております。幼少の頃の遊びということなんですけれども、やはり今のようにスマホとかもありませんし、とにかく自然のもので遊ぶ。遊び道具は全部自然のものを自分で自ら作って遊ぶという形で、先輩から教えられ、また自分が上に立つと、後輩にそのことを教えてという形で、自然に関わりながら遊んだ幼少期を思い出します。幼少期で一番楽しいというか今でも思い出に残っておりますのが、海が近くなりますので、魚釣りはよくしておったんですけれども、小学校の頃は中学校の先輩に連れて行かれながら、歩いて行ける所までは歩いていき、そこから海に飛び込んで沖の磯場まで泳いで、先輩にいろいろを連れられて、教えてもらいながら、助けてもらいながら、魚釣りをしたという非常に楽しい思い出があります。自分は、地元の嘉鉄中学校を出まして、その後高校大学は鹿児島の方、福岡の方。そして就職しまして、東京大阪福岡ということで、25年前に帰ってきて、現在に至っているわけなんですけれども、現在、嘉鉄集落の青壮年団長としまして、集落のいろんな季節の行事、十五夜ですとか、いろんなものがあるんですけど、そこを中心的に携わってやっているんですけれども、昔と比べると、よく大先輩から注意されるのは、昔の青壮年団はもっと頑張ってた。もっといろんな行事に積極的にやってた。今はダメだというお叱りを受けながら、でもなんとか、シマのいろんな文化とかそういったものを途絶えさないように協力してやっているところです。小栗ありがとうございました。静島さんはシマに戻ってからも釣りをされていたということでしたけども、与路島、請島に行って。静島シマに帰ってきた本当の一番の原因は釣りが好きでしたので、うちの親父から「シマに帰ってきたら毎日釣りができるぞ」というふうに騙されたんですね。それで帰ってきて、役場の臨時職員として配属なったんですけれども、休みの度に先輩たちとかと金曜日の夜になりますと、みんなで打ち合わせをして3時出港4時出港5時出港、釣りをされる方は当然ご存知と思うんですけども、いい磯は早い者勝ちということで。みんなで、あの船が何時に出るよ、我々はもっと早く出ようとか色々計画を立てて、磯場に渡って、よく釣りをしたものでした。今はなかなか魚を釣れないということですけども、我々のときには、スマガツオやら何やらすごく釣れて、楽しかった思い出があります。今はなかなかそういう行ける機会がないもので残念ですけれども、娘が今度、高校を卒業して都会行きますので、なんとか暇になりますので、また釣りを始めたいなというふうに思っております。小栗静島さんは奄美大島の瀬戸内町嘉鉄、南部の方お住まいなんですけども、北部の笠利町用安の奥さんは、どんな子ども時代を過ごされたのでしょうか。奄美リゾートばしゃ山村取締役奥光太郎(以下、奥)皆さんこんにちは。奄美大島北部の用安から来てます奥光太郎と言います。よろしくお願いします。静島さんのお話を聞いていたんですけど、ほぼ似たよ

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