20 琉球弧においてはピアソンが指摘したように「世界のサンゴ礁の中でも宝庫である」というように年中可食される魚種があるということがわかる。しかし、いつも平均して大漁になるとは言えない、むしろ可食魚貝類についてはサンゴ礁(イノー)の利用に限られており、リーフ内の魚介類やイザリ漁についての報告であるため追加整理が必要である10。 8.おわりに 1609年の薩摩侵攻後に薩摩は農業としてのサトウキビ生産による経済政策が進められるようになり、新たな農地の開発を行い、島人の食料としてはサツマイモの栽培指導が行われ、救荒植物としてのソテツの植え付けは山の急斜面に及ぶようになる。ソテツは実(ナリ)と呼ばれや幹もデンプンの材料となり、闇の焼酎も当たり前のように密造されていた。ソテツの垂れ下がった枯れ葉は焚き付けに利用され、青い葉は田んぼの緑肥、家畜小屋の屋根、子供の遊び道具などほとんど捨てるところがなく、シイの山同様に島人の生活に欠かせないものであったことが聞き書き調査やシマ遺産調査からも得られている。聞き書き調査からはさらに昭和30年代まではシイの実を拾い、ソテツの実(ナリ)をデンプンとして貯蔵しコメと混ぜて食していた。「とてもおいしいかったよ」という方と「もうあんな生活は二度としたくない」と話される方に大きくわかれた。これには年齢差とコメを加える分量の差による違いがあることもわかったが、おそらく現代の我々にはソテツだけのデンプンではとても食べにくいということになる。 いずれにせよ先史・古代から食していたシイの実と中世・近世以降に食されるようになったソテツは島の人にとって大変なタンパク源であることがわかる。江戸期に入り、ある程度の田畑開墾が行われているが、生物多様性を破壊するような絶滅危惧種まで至っていない。自然破壊や絶滅が危惧されるような動植物があらわれるのは昭和20年以降、いわゆる戦後の減反政策、港湾整備、畑地総合整備、河川整備等が頻繁に行われるようになってからと言えないだろうか。 ある意味では奄美・琉球の人々は先史・古代同様に狩猟採集生活をベースとし、シマの限られた資源資料を上手につい最近まで利用していたということになる。このことは旧石器時代から今に至るまで限られた島資源と上手に付き合ってきたことを示しており、琉球弧は「島嶼文明」といえる。 謝辞 植物調査は田畑満大氏、勝廣光氏等の協力を頂いて行ったものである。また、この調査協力は本共同調査員の他に奄美市笠利町歴史民俗資料館調査員の非常勤職員川畑栄氏の協力を頂いている。 この原稿の一部は2012年に筆者と弓削正巳・岩多雅朗・飯田卓と共著した『名瀬町のいまむかし』に一部使用したものに加筆した。 ■参考資料 1 大島支庁『奄美群島の概況』平成22年 2 大島支庁『奄美群島の概況』 3 平成22年高宮広土「沖縄諸島先史時代からのメッセージ」『生態資源と象徴化』平成19年3月 4 平成21年2月12日官報告示される。
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