平成25年度地域の環境文化に依拠した自然遺産のあり方に関する調査検討業務報告書
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203 て、地元の人に屋久島の本当のよさや真実を知ってほしい。それは、人やマスコミがどういったからではなく、自分の目で確かめて判断するという事で、それがO氏の最終的な願いだという。 (表25)解説の一例 (屋久島町教育委員会提供資料より) (2)小括 屋久島ジュニア検定は、紛れもなく【視座1-2】の実現に向けた挑戦である。そこには、屋久島検定に格別の願いと考えを抱くO氏と子どもたちの成長を願う教育委員会が、共に町【問87】 現在、ポンカンは屋久島の特産物の一つになっていますが、このポンカンの苗木なえぎを最初に台湾たいわんから取り寄よせて植え、後に「ポンカン村長」とも呼よばれた人は、次のうちだれでしょうか。 ① 牧 新蔵(まき しんぞう) ②柴 昌範(しば まさのり) ③黒葛原 兼成(つづらばら かねなり) ③の黒葛原兼成翁は、明治元年(1868年)鹿児島市に生まれ、23年から屋久島の小学校長を歴任れきにんし、明治28年から台湾たいわんの国語学校勤務きんむ。明治38年退職たいしょくして屋久島の平内に移住いじゅう。村会議員4期、県会議員3期して、昭和11年には下屋久村長になり「ポンカン村長」と呼よばれて親しまれました。単にポンカンを導入どうにゅうしただけでなく、その栽培さいばいに自ら取り組み、住民へ栽培さいばいを進め、戦後の日本の高度経済けいざい成長期に贈答品ぞうとうひんとして関東まで販路はんろが広がり、屋久島の特産品となりました。平内地区の西開墾かいこんに黒葛原兼成翁の石碑せきひがあり、同じ西開墾かいこんに、黒葛原翁が台湾たいわんから移入いにゅうしたポンカンの原木が今も生き続けており、町の指定文化ぶんか財ざいになっています。 ①の牧 新蔵は、弘化2年(1845年)に永田に生まれ、江戸えどから明治・大正と激動げきどうの時代を生きた人です。明治6年に地租ちそ改正(ちそかいせい)条例じょうれいが公布こうふされ官民有地区分事業《民間が持つ土地に税金ぜいきんをかけるため、土地を官有地(国の土地)と民有地(民間の土地)に分ける事業》が行われますが、鹿児島は西南戦争のために遅おくれて、屋久島では明治12年に着手し、明治14年に完了かんりょうします。 この時、永田地区では「山仕事を継続けいぞくしてできるように」と、屋久島では特に広い民有地を確保かくほしました。官有林を「より広く確保かくほせよ」という国の方針ほうしんとはぶつかっていたのです。33才で永田地区の地主総代そうだいとなった牧新蔵は、この区分事業に中心となってかかわり、広大な永田地区の民有林を確保かくほしたのです。 その後、永田に杉の植林を進め、成長した杉は戦後の復興用さいふっこうよう木材として高くで売れました。浜はまの松林は北西の風の防風林ぼうふうりんとなり、永田川からの導水どうすいで広い田んぼを開いたのも新蔵の勧すすめでした。 滅私めつし奉公ほうこうの精神せいしんは1918年(大正7年、74才)の死去まで続きました。永田の公民館前に牧新蔵の石碑せきひが区民によって建てられ、その精神せいしんは今も受うけ継つがれています。 ①の柴 昌範氏は、明治24年(1891年)4月28日楠川に生まれ、恵命堂社長などとして活躍し、その間、ガジュツ生産の普及及び地域社会の開発に貢献した功績を称えらえれ、昭和46年3月20日に上屋久町名誉町民(第3号)の称号が与えられました。 正解 ③

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