平成25年度地域の環境文化に依拠した自然遺産のあり方に関する調査検討業務報告書
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13 る。分類の中で特に生活用品、植栽鑑賞、薬用、食用の植物が多いことがわかる。山に入るたびに植種は増えるが、赤木名城内の特徴を示す植物としての目的は達成できたものと考える。 植生調査票を作成し、そのデーターの収録記録から今後はこれらの調査を基に食料資源としての観点から堅果類特にドングリやツワ、薬用など人間とのかかわりと生業の視点からの調査を進めていきたい。 島の中で見られる自然との生業は縄文時代相当期の先史・古代の遺跡から検出された動植物遺体や魚介類遺体の調査などから明らかにされ、狩猟採集民としての島人は限られた動植物の獲得とサンゴ礁を主とする魚貝藻類の獲得を今もシマ(集落)の生活基盤になっていることが大変注目されるからである。 現存する植物については人と関わり合いのある植物のデーターベースを行いその割合は図2の示すとおりである。この植生調査の%は同一植物が複数に利用されているため観賞用や生活用品、食用などにも利用されている%である。この図と表から神山的な扱いにもなっている赤木名城の所在する一帯は人との関わり合いも多いことを示している。 かつては赤木名城一帯の小高い山も先史・古代まで椎に覆われていたが中世に山城が築かれ、琉球・薩摩の影響を受けつつ曲輪が段々畑としてソテツが植栽され、戦後まで畑地化し、現在の地形を有している。 かつてはシイなどのドングリの仲間は比較的こうした神山から奥のほうに群生していたことが植生調査からもうかがえる。奄美大島各集落に近い神山などと呼ばれているところは里山的な役割を果たしていたと考えられる。その里山的な山からドングリが多く自生している山はイノシシやアマミノクロウサギなどの猟をするときに入る山で、その奥へは人がたまにしか入らない山ということになる(図3)。環境省の調査によると人の関与のない原生林はわずか3%位しかないという調査結果も理解できる。終戦直後の山の畑地化の影響もあるが、先述したように土地利用のあり方は深い山から海に至るまでの垂直利用で行っていた可能性が高いことを示している。しかし、深い山と里山的な部分は人の手の加わりの頻度からモザイク状になっているため、里山の根拠を示すことが難しいと言わざるを得ない(図1)。戦後の一時期は深い山まで入っているがその畠が持続して使われてなく一時期であることがリュウキュウマツの成長からも伺える。また、シマの人は畠にする場合必ずといっていいほど山の斜面の土止めと救荒植物としての蘇鉄を植えている(旧正月2日は蘇鉄を植える日でもあった)。大島のシマジマで行った聴き取り調査においてもまた、祖母たちから教えられた記憶などを総合すると蘇鉄は島の人々にとってとても大切で強い思いのある植物であることもわかる。 こうした調査により12、13世紀頃まではシイなどの狩猟採集生活を主としていた奄美の人々がシイに蘇鉄を加え、食料の糧とする管理栽培に取り組み始めたということにつながる。奄美においては蘇鉄に関する古い文献は『沖永良部島代官系図』1682年、『奄美大島資料』1805年、『大島代官記』1833年、『南島雑話』1850年から1855年などに記録されている。沖縄の岸本義彦より、頂いた情報から18世紀に蔡温が沖縄でも救荒植物として普及させているという文献もあった。その他に安渓貴子が「ソテツの来た道」として『奄美沖縄環境史資料集成』2011年3月に南方新社から出版されているのも注目される報告である7。 奄美・沖縄諸島における遺跡の植物遺体調査を進めている高宮広土との調査成果からは沖縄本島の縄文時代相当期の遺跡、ナーサキバル遺跡から1点の出土があるだけであるとされている。

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