10 海岸は、特に東海岸側に珊瑚礁が発達しリーフを形成しており、そのリーフ先端に打ち寄せる波が白波をたて、潮の干満に合わせて美しい南海の風景を展開している。 発達したサンゴ礁の形成により縄文時代相当期の早い段階から砂丘上に遺跡が形成されている。遺跡からはマガキガイを主とする貝殻やブダイ、ベラを主とするリーフ内の魚介類を食していたことが遺跡の調査などからわかる。西海岸沿いは山から急峻に海につながり、リアス式状の湾入した地形をなしている。湾入した地形の奥には集落が形成されており、11世紀末から12世紀に大和の影響を強く受けた山城が入っている。赤木名地区に所在する赤木名城は奄美諸島でも大和の影響を強く受けた山城としてその規模、特徴などから奄美大島の代表的な防御機能を有する山城として2009年(平成21年)2月に国指定文化財になっている4。 笠利地区における聞き取り調査などから終戦直後までは「かさんはげやま」と島唄にも唄われるほど伐採されている。確かに笠利の山々はリュウキュウマツに覆われていることから伐採されてから40年から50年ぐらいしか経過していないことがわかる。集落周辺の山に入ると急峻なところでもソテツを植栽し段々畑状に人の手が入っているのがわかる。本当に猫の額ほどという言葉が合うよく合う。終戦直後は復員してきた兵隊さんや疎開先などから帰郷してきたが、奄美群島は昭和28年までアメリカ占領地のため、一時帰島し、大和に出るに出られず奄美群島の人口が最も増えている時期にあたっている。人口増に伴う食糧不足は大島北部の笠利地区に限らず、奄美のほとんどの照葉樹林に人の手が加わることになる。開墾は各集落から遠く離れた山の斜面などで炭焼き小屋や田んぼのなどの農作業小屋も作られている。冬場の炭焼きや猟の時期などは寝泊りしながらの作業は日常的であったことなどが聞き取り調査から明らかになる。 土地利用のあり方は古い土地台帳や現在の地籍調査による土器台帳との比較を行っているが、緊急を要した畑地など台帳に記載されていないものも多いようである。今後のさらなる調査が必要となる。そんな矢先、奄美郷土研究会員の弓削正巳による古文書
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