8 3.歴史と文化 (1)歴史 奄美はその位置的特徴から朝鮮、中国との交流や、琉球、大和などによる介入など、日本本土や琉球の影響を強く受けた地域といえる。 奄美群島の考古学からは旧石器時代のものと推定される25、000年~30、000年前の奄美市笠利町喜子川遺跡、笠利町土浜マーヤ遺跡や伊仙町のアマングスク遺跡からチャートの剥片や打製石器等が出土している。また、奄美市笠利町喜子川遺跡、宇宿高又遺跡、イャンヤ洞窟遺跡、知名町中甫洞窟遺跡からは、縄文時代前期相当(今から約6千年~8千年前)の爪形文土器が出土している。その他にサウチ遺跡、宇宿貝塚から出土した弥生相当期の装飾品(貝符や鉛ガラス)などから大陸や九州などの地域との交流があったことが示唆されている。奄美群島では、7~10世紀に、大和の律令国家と中国唐朝の時代の影響を受け、複雑な狩猟採集時代が考えられる。それまで奄美群島は九州等からの物流などの影響を受けながら縄文、弥生、古墳時代相当期に比較的単純な狩猟採集生活を近世まで行ってきたことは前述した通りで、独自の社会基盤を形成し、強力な首長を要するような複雑な社会組織に発展するに至らなかったことを意味している。このことは高宮広土が2014年2月8・9日に東京で行われた「環太平洋環境文明史」の学会でも報告を行っている。 琉球においては11世紀から16世紀に按司と呼ばれる力をもったリーダーが出現し、活発な交流・交易を行っている。奄美を含めた琉球弧においては明の朝貢貿易でさらに力を蓄え、琉球王国成立までの激動の時代を迎える。この按司たちの支配が割拠する時代は「按司世(アジユ)」と呼ばれ、その名称が奄美の時代区分にも使われている。この時代には徳之島で焼かれたカムィヤキ(類須恵器)が琉球諸島全体に流通の広がりをみせ、また赤木名城からは12~13世紀頃のカムィヤキ、14~15世紀頃の青磁と大和の特徴を持つ竪堀、堀切等の重層する遺構が発見されている。 これにつづく琉球王朝の時代が「那覇世(ナハンユ)」と区分され、17世紀前半からの薩摩藩による藩政時代を「大和世(ヤマトンユ)」と呼んでいる。 17世紀には薩摩藩によるサトウキビの生産と製糖法が推進され、黒糖による貢租など、奄美地域への支配政策は砂糖を基軸としたものに大きく転換し、明治期の砂糖売買の自由化まで続いているとされている。戦後は一時、米軍統治下におかれたが、昭和28年12月25日に日本に復帰を果し、2013年に復帰60年を迎えている。 (2)文化と暮らし 奄美の人々の暮らしは、自然との深い関わりのもと営まれており、南北との交易や琉球・薩摩の介入といった歴史の影響を受けながら、島唄、八月踊り、豊年祭など独特の伝統文化・芸能や、信仰、自然観などを生み出してきた。このため、加計呂麻島の諸鈍シバヤや与論島の十五夜踊りといった伝統芸能にも南方系と北方系の歌・演目が入り交じったものが見られるなど、琉球文化や大和文化と融合した文化が形成されている。また、方言では集落を「シマ」と呼んでおり、シマごとに、言葉や習俗が異なり独自の方言、島唄が残るなど、多様化した文化が見られている。 人々の暮らしは周辺の自然と密接に関わっており、一般的に、集落を中心として前面の海で魚介類を採取し、川で生活用品などを洗い、川エビやカニ(タナガ、ガン)などを採り、背後の山野で田畑を開墾するとともに、薪や材木を伐りだして生活の糧とするというように、集落が周囲の海や山と一体となった生活を営んできたことがわかる。
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