平成23年度「琉球弧の世界自然遺産登録に向けた科学的知見に基づく管理体制の構築に向けた検討業務」報告
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71 戦前から日本復帰(昭和28年)頃までの暮らし 昔は芋とソテツのお粥が主食だった。朝早くに3、4キロ離れた遠い畑まで行ってイモを掘って、炊いて朝食に出して子どもたちは学校に行った。イモをとっておくと、子どもたちが次々と食べてしまうので、親は必要な分だけをとってくる。裏庭に枝振りのいい木があれば、朝炊いたイモをざるに入れて上に置いた。道具の名前は、子どもがイモを取りたくても手に取ることがないので、「見ないほうがましだ」という方言で、「ニャンハズキ」という。道はけもの道。いまのように草払いするわけでもないので、草が覆いかぶさって人一人が通れるような道。山畑なので、山すそに季節によってはツワブキやアザミをちょっと採ってきては味噌汁の具にして食べたりした。畑は棚田みたいな段畑で、かごを置いておくと勾配があってひっくり返るような所だった。3~4坪ぐらいなので、大家族だったら一日掘ると一枚の畑は掘り尽くしてしまう。だいたい梅雨時に1回植えて、また田直しの踊りのある10月に植えて、年2回ローテーションさせていた。 (奄美市笠利町佐二集落73歳男性、68歳女性) ソテツは奄美の人が自然とともに生きた証 昔は旧正月の二日に仕事始めということで、小学校の時から親に連れられてソテツを植えさせられた。何十年後のためにといって、これが財産だ、食が財産だと聞かされてきた。畑は広げこそすれ、そこにソテツを植える余裕などはない。だから、防風林用に畑の周りにも植えたが、植えるのは山。近くの雑草を払って、クワで穴を掘って、ソテツにできる小さな株を外して植えた。これを植えると両親に喜ばれた。おりこうじゃ、おりこうじゃとほめられてうれしかった。植えたソテツがその後どうなったのかあとは分からない。私どもの時代は、あれからソテツが、あんまり価値がなくなった時代なので。それがどういうふうな経過をたどったのか、残念ながら見届けることはできなかった。 (奄美市笠利町佐二集落73歳男性、68歳女性) ハブがいる気配のする場所 危ない所という方言の表現があって、「パーゴーゲーカンドロじゃあー」という。ハブが「歯がゆいような場所」だなあ、といった意味。薪取りに行った人が、ここはちょっと(ハブがいる気配がして)歯がゆいような場所だからほかへ行こうというふうにして使う。また、「春一番雷でハブが目を覚まし活動する」という合図があった。だから、冬場はどこでも足を踏み入れていたが、これからもう危険で、一歩進むのにも棒で叩くなど草むらを注意することがわかっていた。 手伝い以外では、子どもは山に行ってターザンごっこや椎の実を採りにいったりした。遊びだけど、椎の実を採って、煮たり、いって食べたりもした。とにかく空腹だったし、山に行けばあったから。ただ、そのことが分かると両親に、ハブとの隣り合わせだからこっぴどく怒られた。山の木がそんなに高くなかったので、グワやムタシブ、テーチ(車

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