25 現在は最盛期の半分程度となっている。大正9年(1920年)時の全国人口は5596万人であるから、徳之島の基礎的扶養力の大きさがわかる。 ・耕作地の変化(図表1-36) 徳之島の水稲作付面積は1960年(昭和35年)がピークで、当時2,475haあったが、現在はほぼゼロとなった。これはおおむねサトウキビへの転換がなされた結果である。近年の農業産出額の変化と併せてみると、ばれいしょ、为として肉牛用牧草、肥料生産の伸びが大きい。 ・高校卒業生進路(図表1-55) 島の生活は各種の制約が多いが、とりわけ経済、文化教育的環境においてその傾向が大きい。高校生の進路を直近の数字で見ると、ほとんどの生徒が島外に出ている現状がある。 その理由は、就職先が島にない、大学、専門学校などの進学先がない、ことが为因である。島の将来を考える場合、島で就職したい卒業生の就職先、高等教育環境の整備、Iターンなど新規参入のための諸施策を併せ考えていく必要がある。しかしながらこれらの対処にあたっては、必ずしも数のみが問題ではなく、やる気のある質の高い若者が尐数でも定着するための方策が重要であることに留意することが重要である。 ・観光実数、宿泊収容力推移(図表1-48、1-50) 観光実は、地元観光統計上は昭和50年の約6万人がピークで以降漸減、横ばい傾向にある。宿泊収容力を有力指標としてみると、ピークは昭和56年の1,695人、平成21年は978人と2分の1以下になっている。昭和40年代から50年代前半までの離島観光ブームの影響が、昭和47年の沖縄復帰によって大きな影響を受けたと考えられる。ホテルニューオオタニは、昭和52年に徳之島に進出し、57年に撤退したのもその表れである。 ・戦後史(図表1-56) 徳之島のエポックは、昭和28年の占領からの復帰、その翌年からの奄美振興事業法施行と事業实施である。亀徳港、徳之島空港、道路、土地改良などの基盤整備は、この振興法によって初めて可能になったものであり、島の生活を大きく向上させた。その一方で、公共事業への依存を深め、自然、歴史文化等を結果的に軽視してきたことは否めない。
元のページ ../index.html#33